光の状態、空気の流れ、水、植物、土、そしてそこの介在する人工物としての構造物。これらが集合して人の営みを形成する都市(環境)になる。そんなことをあらためて実感したのが、グンナール・アスプルンドの建築だった。アスプルンドの作品は、今回4つ見たが、どれもクラシカルな言語でつくられているし、バナキュラーともいえる。つまり突飛な真新しさはそこにはない。つまり街の至る所で類似のかたちを見つけることができるのだ。違いは、配置やプロポーションといった非常に繊細な部分からもたらされる。(ここに現代性があるように思う。)
なかでも森の火葬場はすばらしかった。かたちや配置、スケール、プロポーションの単純な操作で、あそこまで豊かな環境を作り出している例はこれまで見たことがない。しかも建物だけでなく、植物や地形のレイアウトまですべてがバランスして、場を作り出していた。大きな環境の中にある小さな住宅のようなスケール、葬儀の経路になるシークエンシャルな配置、象徴的な空間のスケールなど、多様な空間とスケールが見事に調和し、まさに「環境」としかいいようのない空間があった。
そんなことを思いながらブリュッセルに戻ると、偶然大学時代の研究室の先輩の作品をネットで見つけた。人と環境との関係をつなぐやさしい空間の作品だった。僕は、都市、街が建築や土木で分断されず人の営みの環境をつくることができないかと思っている。橋や広場も建築も同じ土壌で議論され考えられるべきなのだと思う。そしてそれらの言葉がわかりやすく翻訳され、一般の人にも共有される方法を考えないといけない。方法論や方向は違えど、人の営みの環境をシームレスにつなぐという点で、いろいろ話してみたいと思う。帰国の際には、事務所を訪ねようと思っている。
まだまだ整理しないといけないが、ぼんやりといろいろなことが頭の中でつながり始めてきている。環境、公共性、都市、構造、共有、身体性、装飾。様々なレベルの言葉だが、これらが少しずつ収束しはじめている。