印象に残ったことは、彼の作品が非常に個人的な感覚を起点として出発しているということ、個人的な感覚で捉えたひとつひとつはごく普通だが、執拗なまでに突き詰めていた結果のかたちが独特の雰囲気を醸し出しているということ。個人的な感覚で選び取ったことは、誰もが持っている、もしくは感じることができるようなものであるため、結果としてのかたちは個人的なものでありながら、共有されうるものになり得る。
また、コンテクストから独立したオブジェとしての建築(かたち)の存在させ方には非常に共感をした。そうすることでものすごく純粋なかたちとして存在させることができる。しかしこのことによって見る側はそこに多義的な意味を見いだすことができるのだと思う。
かたちは、必ずしもコンテクストやコンセプトといった概念的なものからスタートしなくてもいいし、結果存在したかたちはそれを感じることで共有されていくのだとしたら、個人的な感覚を起点にし、それをそのままかたちにして行く方法もあるのだろう。
床の素材の連続や扉の開閉、部屋と部屋の接続の違いといったことが人に生じさせる感覚をたよりにし、その感覚が必要となる場所に、その感覚を創り出す適切でより純粋なかたちを生み出す。
建築、かたちが何に存在理由を求めるのか。それは時代によっても異なってきた。Valerio Olgiatiの作品ようなかたちが、一般の人にとっても共有可能な感覚をもったものだとしたら、
多義的な行為を生み出すのだとしたら、かたちはコンテクストや機能といったものから解放され、より純粋なものになり得るのかも知れない。コンテクストに沿わせることの意味とは、歴史的に共有されてきたものを踏まえることに目的があるのではなく、そのことによって建築、かたちが人々に共有されることに目的があるのである。機能も同様に使う人に共有されるのであるならば、必ずしも一定の機能と空間を対応させる必要はない。
個人的な感覚を起点にすること、コンテクストによらないかたちの存在させ方、挑発的な言葉が並んだが、実は共有されることに目的がある。
かたち、共有されるということ、ベルギーに来てから僕の頭の中を流れているこの言葉のヒントのひとつが今日見つかったことが何よりの収穫。
講演会後、ボスと食事に出かける。ベルギーの田舎料理を食べる。
コンペに関していいニュースあり、上機嫌での食事のひとときだった。