2010/09/26

カンブル修道院

ブリュッセル市内中心部、ルイーズ通りのすぐ近くにひっそりとあるシトー会の修道院。ゴシック・レイヨナン様式とフランボワイヤン様式で建造された美しい付属教会堂と庭園が見学できる。様式が混合されていて各時代で改修を重ねてきている遍歴がよくわかるのが面白い。派手さはなく質素なつくり。

訪れたときはちょうど小雨が降っていたが、教会に入った途端、一気に晴れ上がり、中庭を通して側廊の木製の扉から、光が差し込んできたのである。石造りの重厚な空間が一気に柔らかく感じられた。中庭の配置と光の差し込み方のバランスがこの空間を生み出している。こういう微妙な空間のニュアンスは写真では映らない。体感してみる価値がある場所だ。

建物周辺は、カンブルの森と呼ばれ、緑に包まれる庭が広がる。高低差をうまく利用して計画されていて、中心部の喧噪から一気に雰囲気が変わる。12世紀から時間を経て積み重ねられてきた建物の配置と19世紀に計画された庭との関係は、新旧時間の中でその時代ごとにそれぞれ計画していくことの意味を教えてくれる。保存ということだけでない、もう一つのベクトルも重要なのである。





2010/09/23

アントワープ

アントワープ環状線のプロジェクト。去年ここにも少し書いたが、橋梁案への対案として生まれたトンネル案。住民投票を経て、最終的な判断は、トンネル案に決まった。コンペで決まった橋梁案だったが、その計画のひとまわり外側にトンネルを通すという対案が持ち上がって、昨年から議論が行われていた。市の景観を保全するという観点がポイントとなったようだが、計画地は工業港付近であるし、新しいものとの共存をうまくやっている街なだけに、少し残念。
ただ、トンネル案も問題を抱えていないわけではなく、コスト面でのデメリットがある模様。対案を紹介したPR活動では、コスト面は問題ないと書かれていたが、非常に漠然としたもので、今後ここが問題になっていきそうだ。いつものことだが、巨大なプロジェクトは政治的なにおいがする。

そういえば、先日勝ったzwolleの案。

2010/09/22

イスタンブール

展覧会shaping forcesの巡回展が、イスタンブールデザインウィークの中で行われる。1週間のイベントだが、使われなくなった橋の上で行われるデザインイベントでロケーションがなかなかユニーク。まだ最近始まったばかりのようだが、年々規模が大きくなっているようだ。月曜日に展示物の搬送を行い、今週末に施工にかかる。デザインイベントの中で、橋、構造デザインの展覧会が行える環境は興味深い。ヨーロッパの紙幣やユーロをみても、橋が図柄になっていることが少なくない。橋というのは特別な存在のひとつなのだ。

2010/09/14

zwolle 勝利

昨日の提出、プレゼンだったzwolleの歩道橋コンペ。翌日の今日夕方、結果の電話連絡があった。今年3つ目のコンペ勝利。今のところ今年は4戦3勝1結果待ち。

2010/09/13

コンペ

zwolleのコンペを無事提出。今回の提案は、条件が厳しい中であるからこそできたかたちとなった。そもそも歩道橋の線形がS字ということがはじめから決まっていて、架設場所も自由度がほとんどなかった。街の歴史や敷地の特性を考慮した上で、素材、大まかなデザインの方向性(ここでは透明性)を決めたあとは、条件と力学に則ってかたちを模索していった結果が最終的な提案となった。非常に軽やかで繊細な2つのアーチが交差するユニークなかたちを提案できた。

力学をベースにすると、ある一定の既知のかたちに収束していくのが通常である。しかし、そこに様々な条件が加わることで、最終的なかたちは独特のものが生まれてくる。既知のかたちに収束しない構造解析の方法もあるが、一方で条件の設定と力学を組み合わせることでその場所特有のかたちを導く方法もある。場所性とはそんなことからも紡ぎだされるのかもしれない。そしてそのプロセスは、力学という自然の法則と、場所の条件が組合わさるがゆえに、共有可能なものになる。

2010/09/05

批判と批評

過去の事例をもとに、新しいチャレンジを批判することは容易である。時間を経て価値を持ったものも、当時は新しいチャレンジであったはずし、価値は定まっていなかったはずだ。安易な批判は誰にでもできる。批判と批評は言葉は似ているが違う気がする。批判はどこかに否定を含んでいるし、先のビジョンの提示がないように思う。批評は、新しい可能性を含んだ評者の考え方の提示のように思う。

あるデザインを論じるには、リアリティある考え方の提示もしくは可能性の提示が必要だ。そうでなくては単なる否定で、そこからは何も生み出されない。

人が使うものや場所をつくる僕らの仕事は、実践を伴うこと、実践を重ねていくことで新しい地平に向かえることがある。熊本の石橋も中世のカテドラルもローマの水道橋も実践を積み重ねることで、技術は完成されていった。実践の過程で多くの経験や思考が生まれた。

僕らの仕事はごく普通の人が使う場所、ものをつくる仕事だ。だからこそリアリティが必要だ。実際に肌で体感した経験が、リアリティのある場所やもの、概念を生み出す。人を相手にする仕事である以上、たくさんのものを見たり、たくさんのことを感じたり、多くのものを生み出してきた経験がなければ、多くの人に共感してもらえるものを構想ですることはできないのではないだろうか。

僕らは現実の世界を対象にしている以上、リアリティをともなった概念や仕組みを考えなければいけないように思う。

2010/09/04

college bridge

完成後はじめて、college bridgeをみた。今回は熊本大学の先生をローランと共にご案内。事務所の代表作を見てまわった。想像以上の仕上がりだった。施工の精度も高かったし、ランドスケープの一部を除けば完成度としては非常に高いものだった。どうしても恊働作業の場合、コントロールしきれない部分は出る。それでもここはうまくいっている方だろう。この橋以外にもクノッケ、スタリールの2橋もまわった。

思ったこと。橋は決して眺める対象だけではないということ。ある環境の中にそのかたちが置かれたとき、人に体感的に訴える存在になり得るかも重要だということ。かたちとは思考の結晶なのである。どういう場所をつなぎ、そこからどんな風景が見え、どのように人を渡らせるか、そしてどのように記憶に残る存在になり得るか。かたちをつくる仕事の本質はそこにあるのではないだろうか。

ローランはかたちと力は密接に関わるという。エンジニアは構造解析が職能だと思い、かたちを問題を忘れがちだともいう。エンジニアは力の流れとそのかたちを構想し、与えられた条件の中、環境の中にどう位置づけていくのかが職能なのである。かたちを考える際には、そのものの美しさはもちろんだが、それ以上にそのものがどういう存在として体感されていくのかも重要なのだと思う。そしてそのかたちの思考が明確であればあるほど、共有される可能性がある。

college bridge, knokke footbridgeは、構造的なチャレンジはもちろんであるが、風景のなかで体感され共有されていくことを考えて構想されたものなのだと思う。体感され記憶に残る風景。そこには身体感覚を伴った空間的な思考が存在しているはずである。だからこそ場所を訪れたときに思考の軌跡に思いを馳せることができるのだ。熊本の石工たちの石橋もそうであるように。人の身体スケール(営み)との関わりを忘れたものは、心地よい風景にはならないのである。