思ったこと。橋は決して眺める対象だけではないということ。ある環境の中にそのかたちが置かれたとき、人に体感的に訴える存在になり得るかも重要だということ。かたちとは思考の結晶なのである。どういう場所をつなぎ、そこからどんな風景が見え、どのように人を渡らせるか、そしてどのように記憶に残る存在になり得るか。かたちをつくる仕事の本質はそこにあるのではないだろうか。
ローランはかたちと力は密接に関わるという。エンジニアは構造解析が職能だと思い、かたちを問題を忘れがちだともいう。エンジニアは力の流れとそのかたちを構想し、与えられた条件の中、環境の中にどう位置づけていくのかが職能なのである。かたちを考える際には、そのものの美しさはもちろんだが、それ以上にそのものがどういう存在として体感されていくのかも重要なのだと思う。そしてそのかたちの思考が明確であればあるほど、共有される可能性がある。
college bridge, knokke footbridgeは、構造的なチャレンジはもちろんであるが、風景のなかで体感され共有されていくことを考えて構想されたものなのだと思う。体感され記憶に残る風景。そこには身体感覚を伴った空間的な思考が存在しているはずである。だからこそ場所を訪れたときに思考の軌跡に思いを馳せることができるのだ。熊本の石工たちの石橋もそうであるように。人の身体スケール(営み)との関わりを忘れたものは、心地よい風景にはならないのである。