2008/08/31

Wachendorf

ブリューダー・クラウス・フィールド・チャペル。
Wachendorfという駅からタクシーに乗って20分ほど。バスもあるようですが、本数が非常に少ない。全く英語は通じず、ドイツ語。同行者が行き先を伝えるためのドイツ語訳をメモしていたため、教会付近までタクシーでたどり着く。遙か彼方にそれらしきものが見える。周囲は起伏の緩やかな草原。初夏の日差しは思ったより強い。
一つの建築をみるために、世界中から人が集まるのだろう。僕ら以外にもあとからあとからぽつぽつ教会へ向かう人がみえる。この長いアプローチの時間が小さな教会のために費やされる。一つの建築をみるための非常に心地よい時間だった。時間がゆっくりと流れているのを実感できる。現代でもこういった構造物の在り方がある。小さな村のための小さな信仰のために創られた教会。アプローチ道には村の人がつくったと思われる手書きの案内があった。










2008/08/30

ブリュッセル散歩(4)

恐竜博物館。
結構おもしろい。内容も充実している。
地下フロアすべてを使って発掘現場が再現されていたり、恐竜の関節の仕組みや骨の重さなどを体感できるコーナー、恐竜の声の再現もある。映像展示の充実しているし、解説は4カ国表示、さらにそれぞれに研究者の映像解説がある(しかも映像の演出も凝っている)。恐竜以外にも現代の昆虫や動物の展示コーナーまである。じっくり見るととても一日では観きれない。




2008/08/29

土木観察(2)

写真を見返していて、おかしな柵を見つけた。横断抑止柵もあり、柵のようなベンチのようなものまであり、植栽帯もあるし、ボラードまである。総出演だ。しかも歩道側に一つだけある柵のようなものが、ベンチだとするなら、自転車道と近接しすぎている。もう一つこの写真で思ったことは、自転車道の青色。なぜ青?これから日本の道路は色とりどりに塗られていくのだろうか?スクールゾーンの緑。駐車停車禁止の赤。注意喚起の黄色。これ以外にも橋の色など、土木の色はみていくと、どうやって決めたのか意味不明なものが多い。

You can see many colors of road in Tokyo.
Blue means the bicycle zone. I don't know why they chose blue.
I am not sure whether they intend to paint the road like a rainbow.




ケルン

ケルン大聖堂、DOME。これぞゴシック建築という迫力。
天を目指してこれを創りあげる時代精神は、今からはとても想像できないことを実感する。構造物の実体を伴った物質感が、人々を惹きつけ魅了するという原点をここにみた気がする。使い方や機能というかたちにならない部分も大切だが、やはりこの空間を包み込む独特の空気感は、建築、構造物しか持ち得ない最大の特徴のひとつだろう。

ケルンの旅は、このほかに聖堂内のリヒターのステンドグラス、ズントーの小さな教会と美術館を訪ねた。
聖堂とは違った意味で建築、構造物の力を感じた非常によい建築だと思う。この辺りは後日として、最後にリヒターのステンドグラスについて。現代作家としてこういった形で歴史的な教会に作品を残すのは、おそらく初めての機会ではないだろうか。ゴシックの歴史の中で違和感なく、しかし現代性を失わずにある。おそらくアートとして気がつかない人もいると思う。でも明らかに他の時代のステンドグラスとは異なる香りがする。

これをみたときにアートとかデザインとかそういったことはどうでもよく感じた。歴史の中の一部として、しかし現代のものとして、時間をつないでいく在り方が心地よかったのだと思う。





2008/08/28

土木観察(1)

柵をみて歩く街歩きに同行した。日本でよく見かける横断抑止柵を中心にみた。これは、歩行者の横断を抑制するためのもので、車両の歩道への進入を防ぐものではない。この事実は意外と知らない人もいるかと思う。アクシス9月号の東京土木のページで日本の現状が紹介されるようなので、ここでは日本について僕は触れないが、ベルギーではどうだったかと思い、写真を見返してみた。柵を意識して撮った写真ではないが、いくつか見つかったので少しここに載せようと思う。

ベルギーでは大きな幹線道路でも、横断抑止柵やガードレール(車両用防護柵)はほとんど見かけない。あっても交差点付近に少しとか、ボラードがたまにある程度だ。なぜかと考えてみると、歩行者の横断に対して車の方が必ず止まることが思い浮かぶ。特に信号機のない横断歩道では100パーセント車が止まる。歩行者優先は常識となっている。このことだけで柵は必要なくなる。ただ日本とは違い、車道の脇が無料の駐車スペースとなっている。誰が止めても問題ない。道路の脇はほとんど駐車場だ。街中どこでもと言うわけではないが、ブリュッセルでは、こういったスペースは非常に多く見られる。首都とはいえ東京にくらべると人口が少ないのでこういったことが可能なのだが、柵とこの駐車スペース、どちらが美しいかは微妙な問題だと思う。ただ歩行者優先のマナーが常識化している分、街を歩いていてドライバーの心遣いが心地よく、非常に快適に感じるし、市内の一定エリアは車両進入禁止だったり道路脇の駐車スペースもなかったりする。

もう一つ頭に浮かんだのは、機械に対する認識の違いだ。たとえばエレベーターや公共交通の扉の閉まり方が、挟まったら危険だと思うくらい、かなり乱暴に閉まる。日本のようにゆっくりとは閉まらない。想像だが、機械はあくまで機械で、人はそれよりも弱いという認識があるのではないか。車も同様に機械なので日本以上に、人の方が絶対的に弱いという認識が恐らくあるのではないかと思う。便利さを求める車社会はどの国でも存在する。ただその認識の違いで街の有り様は変わってくる。

これから土木観察ということで、すこしづつヨーロッパ(ベルギー中心だが)で土木がどのように捉えられているのかを書いていこうと思う。



2008/08/26

熊本

今年の1月にデザイン誌の取材でいった熊本です。
アートポリスの取材でしたが、熊本は石造りの有名な場所でもあるため、通潤橋にもよってもらいました。
今から150年以上昔の橋ですが、その迫力は人を惹きつけます。灌漑用水用の水路橋です。ユニークなのは水路にたまった砂や土を流すために橋の中央部から放水を行います。この辺りは深い谷に囲まれているため、田んぼの水はもちろん、飲み水にさえ苦労する場所だったようで、この橋の意義は非常に大きかったのだと思います。設計者と石積みに関わった石工の名前もしっかりと記録に残っています。人々の生活を支える土木の在り方だと思います。

Bridge for irrigation water in Kumamoto,JAPAN
This bridge had made 150 years ago. When I visited this site, I was fascinated by a spirit of ancient civil engineer.




2008/08/25

建設中、グラフィティ

ロンドン。好景気のようで、街中で建設中。
すこし郊外に行くと、新規の高架道路を建設するため、古い街区を壊している。でもファサードは残すよう。




























街を散歩するといつも気になるのが、グラフィティやサイン。街の中にあるグラフィック要素。いろいろな在り方があって楽しい。
特にグラフィティやストリートアートは、人の痕跡のような形がたまらなく好き。よく見ていないと気づかない存在感のものとか周囲の環境をうまく使ったものとか、不意に見つかるとうれしい。気がつくと、訪れた街でこういうものを写真でとっている。




2008/08/24

こどもの国

日本はこどもの国ではないか?
ヨーロッパには芸術があるが、日本のものつくりの場合は、芸術といった真剣なものではなく、遊びといった方が似合うことがある。
日本の熟練した職人技は、その表現にどこか遊びが含まれている感じがする。芸術という真剣な唯一の本物感という気迫とは違って。
「みたて」などはこのような発想の一つだと思う。
故にヨーロッパは大人の国で、日本はこどもの国ではないか?
先日ある人たちとこんな話をしていた。

日本には、デザインがいらないのでは?そんなことを思うときがある。ヨーロッパではデザインが必要か不要かと言う議論よりも、どういったデザインが必要かという「かたち」や「もの」に関する議論に時間を費やすことが多い。
社会的にもデザインを職能とする人間の地位が確立されているし、デザインの議論に人々が関心を示し、議論に参加する。
日本ではデザインが必要か不要かという議論に時間を費やし、その後のどういったデザインということにはヨーロッパほど議論に時間を費やさない。デザインが必要か不要かという「在り方論」が重視され、その結果、実際に出来上がるものよりも「手続き」が重視されることとなる。ゆえに「かたち」をつくるデザイナーという職能よりも「在り方論」をつくるアカデミックな職能の方が重視される。このことはどちらがよいということではなく、社会を成り立たせている思考基盤の違いだと感じている。

今回の一時帰国でそんなことを感じていた折、日本はこどもの国ではないかという話を聞いた。こどもの国では、日々の楽しさを求める。そこでは、物事の意味よりも、物事の快楽の方が優位となる。意味よりも快楽から成り立つ街の姿が、日本とヨーロッパの都市の姿ともどこか重なる。快楽には議論はいらない。人々の関心は、芸術という大きな深い思想ではなく、日々の中にあるちょっとした豊かさ、楽しさの方にあるのではないか?たとえそれが本物を模した擬似的なものだったとしてもよいのである。「もの」よりも「出来事」の方に関心がいく。

ヨーロッパと日本の思考基盤の違いを受け入れると、そこから見えてくることがあると思う。
とはいえ、ものづくりには「かたち」は必要不可欠である。「かたち」「もの」よりも「出来事」が重要だとは思わない。どちらも重要だと思う。日本なりの「かたち」の議論が必要なはずだ。それゆえ、ヨーロッパと日本には根本的な違いがあることを承知の上で、ヨーロッパで「かたち」の議論、デザイン思想をこれから体感する意味はあると思っている。

まだうまく整理できていないが、書くことで整理されていき、ある時に一つ一つがつながって考え方となることがある。
だから、直感で感じた整理できないことを、まとまっていない思考を、矛盾だらけの思考を、ここに書いていくつもりだ。

2008/08/23

ブリュッセル散歩(3)

ブリュッセルにある建築ギャラリー。
建築や土木に関するローカルな情報はここにくると集められる。
市内にもアートギャラリーや専門書店があるが、ここでしか得られないベルギー国内の情報が得られる。
















ボザール。
おもしろそうな展覧会がたまにある。建築に関するものだと、フラマン語圏の建築展などをここで毎年やっているよう。













>追記 2009年6月4日
来春ボザールで事務所の展覧会が開かれる。僕の担当プロジェクトだ。この頃はそんなことなど想像していなかった。

2008/08/22

ブリュッセル散歩(2)

ストッケル駅 タンタン壁画
ブリュッセルの地下鉄駅は、アーティストによるパブリックアートが駅ごとに施されている。よいものもあればそうでないものもある。












ルーヴァン・カソリック大学医学部学生寮。ルシアンクロール設計
ストッケルからすぐの地下鉄駅の隣にある。市内からは15分ほど。地下鉄だが終着駅付近では、地上を電車ははしる。
窓からこの建築が見えたので、途中下車してみた。





























構内にはカフェなどの飲食店もあり、休日をのんびり過ごすのにもってこいの場所。心地よいスケール感。公園と建築空間が互いに溶け込んでいる。非常に静か。





































写真で見るのと実際に見る印象が大きく違う建築。
建築、外構、公園とすべての細部にわたってスケールをしっかりとコントロールしているからだと思う。








この後ブリュッセル市内にある本屋さんへ。

2008/08/19

東京、読書

本から本へと渡り歩いているうちに、思わぬ良書に出会うことがある。当然誰かが引用している訳なので良書であるのだが、まさに今の出会うべくした感の本であることがある。

この夏、幾冊かの本を読んだ。
その中の一つが「雪あかり日記」
谷口吉郎のドイツ建築巡礼旅の日記だ。
10章からなり、それぞれに、うすら寒い日、鉛色の日、凍てつく日、、、など日々の背景となる情景が浮かぶようなタイトルがつけられている。

19世紀初期の建築家シンケルを見てまわった日々を綴っている。
大戦前の緊迫した様子が漂う文面のなか、合理主義建築の流れの中で立ち止まり、建築のもつ原初的な力について思考している。20世紀の合理主義建築の考えからは、ギリシャに回帰しようとする古典主義建築は、過去の模倣とも取られかねない。

しかし、シンケルの「無名戦士の廟」を見、この古典主義建築の重々しく力強さを前にしたとき、建築の「形」の持つ力を再確認している。そして、「用途をとび超え、時代を超越し、過去の「形」から強い表現力が新しく発揮される場合のあることを認めねばならない。あるいは建築の種類によっては、そんな「形」の問題こそ、その建築の全目的となる場合がある」と書いている。「無名戦士の廟」は建設当初は近衞兵所であったものが、後に戦死者をまつる廟へと用途が変更されたものだ。

この秋再度ベルギーに戻った際、ベルリンにいこうと思う。
シンケルはシュロス橋という橋も設計している。
ヨーロッパでは土木においてデザインがなぜ必要かという前提の議論ではなく、どう創るか、なぜその「かたち」なのかから議論が始まる。「かたち」の問題は、これから日々格闘しなければならない問題だと思う。そして、同時に日本の土木にどのような形で「かたち」の議論を持ち込むかをこれから考えなければと思う。

2008/08/13

TOKYO

現在東京に滞在中。
ある仕事を頼まれ、東京について考えることに。

僕が関わる土木構造物のデザインは、
かたちの意味を考えていかなければならないと思っている。
AXIS誌の9月号にAXISフォーラムのレポートを書いたが、
現在の土木のデザインは、かたちの意味から逃げているように見えた。

そんなことを考えている折、この仕事を頼まれたのだが、
ここではかたちはでてこない。
でもできること、しなければいけないことがある。
通常は設計者という職能が関わることのない部分だが、
だからこそ関わっていくことが重要な気もする。

何が必要で、どんな環境、状況が豊かで楽しいかということが
想像できるなら、いわゆる構造物という形ではなくても、
デザインはできるはずだと思っている。
今回の仕事の場合は、ビジョンを示すための言葉なのだが、
こういう部分が本当に重要なケースもあると思う。
使う側とのコミュニケーションのためのこういった言葉が。

かたちの問題は、これから考えていくけれども、
コミュニケーションとしてのデザインも考えなければと感じている。
そして評論家ではないので、やはり実際のプロジェクトと合わせて、
考え方を提示していけないと感じている。

今関わっている仕事についての詳細は
今ここでは書けないので、いずれ時期が来たら。